吉野山と桜

吉野山の桜

吉野山は全国的に桜の名所として有名で、4月の上旬から中旬にかけて3万本ともいわれるシロヤマザクラが豪華絢爛に咲きみだれます。しかし、みなさんはなぜ吉野山にこれほど多くの桜が植えられたかご存知でしょうか。

日本全国の多くの桜の名所では、近代になってから桜並木を整備したり、古くからある古木を大切に 保護したり、いわゆる「花見」のために桜を植栽・管理しています。しかし、吉野の桜はそれらのものと は異なり、「花見」のためではなく、山岳宗教と密接に結びついた信仰の桜として現在まで大切に保護されてきました。

その起源は今から約1300年前にさかのぼります。その当時は、山々には神が宿るとされ、吉野は神仙の住む理想郷として認識されていました。のちに修験道の開祖と呼ばれる役小角(役行者)は、山上ヶ岳に深く分け入り、一千日の難行苦行の果てに憤怒の形相もおそろしい蔵王権現を感得し、その尊像こそ濁世の民衆を救うものだとして桜の木に刻み、これを山上ヶ岳と吉野山に祀ったとされています。その後、役行者の神秘的な伝承と修験道が盛行するにつれて、本尊を刻んだ「桜」こそ「御神木」としてふさわしいとされ、またそれと同時に蔵王権現を本尊とする金峯山寺への参詣もさかんになり、御神木の献木という行為によって植え続けられました。また、吉野にはその桜に惹かれて、多くの文人墨客が訪れています。古くは西行法師が吉野に庵を結び、多くの歌を残しました。

吉野山の桜吉野山の桜

その西行法師に憧れ、吉野に2度杖をひいたのが松尾芭蕉です。貞享元(1684)年の秋9月に西行 法師を慕って、奥千本西行庵に向かい、

と詠んで、「野晒紀行」にまとめました。さらに4年後、弟子の坪井杜国を伴い、花の吉野を目指しまし た。その旅をまとめた「笈の小文」には次のような句がおさめられています。

吉野山の桜吉野山の桜

また、国学者本居宣長は、なき父母がなかなか子宝に恵まれず、吉野の子守の神(吉野水分神社)に 熱心にお参りをしたご加護で自分が生まれたと信じており、そのお礼参りのため、世に聞く吉野の桜見 物をかねて春の吉野に訪れました。その様子は「菅笠日記」に納められています。 この頃から一般庶民の吉野への旅が盛んになり、春の吉野山は今と変わりない賑わいを呈するように なりました。

吉野山の桜

少し時代はさかのぼりますが、吉野での花見といえば、豊太閤秀吉の 花見を抜きには語れません。秀吉が、絶頂の勢力を誇った文禄3(1594 )年、徳川家康、宇喜多秀家、前田利家、伊達政宗ら錚々たる武将をはじめ、茶人、連歌師たちを伴い、総勢5千人の供ぞろえで吉野山を訪れまし た。しかし、この年の吉野は長雨に祟られ、秀吉が吉野山に入ってから3 日間雨が降り続きました。苛立った秀吉は、同行していた聖護院の僧道 澄に「雨が止まなければ吉野山に火をかけて即刻下山する」と伝えると、道澄はあわてて、吉野全山の僧たちに晴天祈願を命じました。その甲斐 あってか、翌日には前日までの雨が嘘のように晴れ上がり、盛大に豪華 絢爛な花見が催され、さすがの秀吉も吉野山の神仏の効験に感じ入ったと伝えられています。

その後、明治の廃仏毀釈や第二次世界大戦等により一時吉野山の桜も衰退を辿りますが、吉野山保 勝会をはじめ関係者の懸命の努力により、今では往時の勢いを取り戻しつつあります。今までに紹介 した他にも、吉野には源義経と静、南北朝時代の後醍醐天皇など、様々な場面で歴史の舞台に登場し ます。吉野にはこれらにまつわる神社仏閣・史跡が点在し、その当時の面影を残す悠久の里です。日本 一ともいわれる美しい桜を愛でるのはもちろんのこと、今も脈々と伝えられる歴史や文化を通して遠い 昔に思いを馳せてみてはいかがでしょうか。

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